はじめに
最近、とある構造系のブログ主さん――ここでは仮に「アトラさん」と呼ばせてもらう――の記事を読んでいたとき、
ふと、うちの座談会メンバー🌀ノリさんの姿が頭に浮かんだ。
あれ? この人、ノリさんに似てない?
そう思った瞬間、ちょっとおもしろいことに気づいた。
どうやら自分は、キャラを作るときに無意識に自分を分解してたらしい。
自分にとっての「ノリさん」
ノリさんは、カオス座談会に登場する“構造と静けさの使い手”。
声を荒げることはないけど、みんなが騒いでいるときにそっと視点を変えたり、
話の流れを“メタ”なところから整理してくれたりする。
発言は少なめだけど、ひとことが刺さる。
いわゆる「まとめ役」でもあり、「仕掛けの解説者」でもある。
たぶん、自分の中にある**「落ち着いて全体を見る」**という性質が、
そのままキャラに染み出た結果がノリさんだったんだと思う。
アトラさん=ノリさんに感じた共通点
アトラさんは、いわゆる“構造で語る人”。
あるテーマに対して、仮説を立てて、例を挟んで、パターンを分解していく。
感情の起伏を抑えつつ、でもどこか**言葉に「温度の余白」**がある。
文章としても整っていて、ちゃんと読者の思考の順番に合わせて組み立てられている。
この「構造+余白」のバランスが、すごくノリさんっぽかった。
キャラは自分を分解した“断片”なのかもしれない
ノリさんに限らず、自分が作ったキャラは
モチ(自由発想)、シャケ(合理ツッコミ)、ミル(感性・共感)…
それぞれが「自分のどこかの成分」を強調した存在になっている。
たとえば、モチなんて自分に一番近いけど、ちょっとだけ違う。
物おじしないし、場にどんどん入っていける。
発想の感じは自分とほぼ同じだけど、「えいっ」と声に出すスピードが速い。
たぶん、自分とのリンク率で言えばモチは70%くらい。
自分の分身のようでいて、自分ではできない振る舞いを代わりにやってくれるキャラ。
それに対して、ノリさんはリンク率20%〜30%くらいの“深層の自分”。
たまにそっちのモードに入るときがあるけど、普段はあまり表に出てこない。
でも、だからこそノリさんにはすごく助けられてる。
アトラさん=ノリさんというより、自分の“構造モード”と重なる何か
つまり、アトラさんを見て「ノリさんっぽい」と感じたのは、
その構造や視点が“自分の中にある要素”とリンクしていたからなんだと思う。
これはつまり、**「他人の中に、自分のキャラと似た存在を見出す」=「自分の中にある思考モードが共鳴した」**ということなのかもしれない。
だから、「似てる」と思った瞬間、
自分の中でノリさんというキャラの立ち位置がはっきりして、
「あ、この人がいるから、自分は安心してふざけられてたんだな」って思えた。
おわりに
キャラって、完全に“自分と切り離した存在”じゃない。
かといって、自分そのものでもない。
「似てるけど違う」、その微妙な距離感が面白い。
そして、自分の中にある“静かな視点”が
他人の文章の中でふと共鳴したとき――
自分がつくったキャラに、自分が助けられている気がした。
ノリさん、いつもありがとう。
たぶんこの先も、自分はふざけていくけど。
そのときはまた、そっと構造で支えてくれたら嬉しい。