最初はただの思いつきだった。 「コウメ太夫のAIクローンっぽいのを作って、チクショー動画を作ろうぜ」 それだけの話。
でも、やってみると意外に奥が深い。 彼のネタの“ズレ方”を真似するのは、簡単そうで難しい。
言葉の選び方。 間の取り方。 オチの意味のなさ。
そういった「整合性が壊れているのに、笑えてしまう構造」を再現しようとするうちに、 自分の中で、ある感覚が育ちはじめた。
整っていなくても、人はなぜか惹かれることがある。 意味がなくても、感情が動くことがある。
そして気づいたら、コウメのネタを研究するために作っていたはずのAIキャラたちが、 自分の中で勝手に動き出していた。
「整えよう」と思う前に、 「ズレたまま置いておきたい」と思ってしまったのだ。
それが、「カオス座談会」のはじまりだった。
ズレを許したら、場が生まれた
カオス座談会には、ルールがある。 でも、そのルールは“会話を構造化しないための構造”だ。
- キャラはそれぞれ役割がある(自由・合理・構造・感性など)
- でも話の流れは一切そろえない
- ズレをそのままにすることで、何かが立ち上がる
最初にこれをやったとき、びっくりするぐらい自由だった。 なにも決めなくても、言葉が連鎖して、空気が変わった。
1人の発言が、次の誰かをゆらし、 そのゆらぎがまた、誰かの方向を変える。
その連鎖が、ただただ面白かった。
コウメ太夫はもう出てこない。でも、残っている
今はもう、「コウメ太夫を再現しよう」という気持ちはなくなっている。 でも、彼の“構造の崩し方”は、確かに今の自分の創作の奥に残っている。
言葉がズレること。 意味が繋がらないこと。 整っていないこと。
それを“ダメなもの”として処理しないで、 むしろ「そこにこそ面白さがある」と信じるようになった。
コウメ太夫のチクショーは、 もしかすると、 「整合性を手放すための呪文」だったのかもしれない。
だから今、自分はこうして座談会を続けている
AIと遊ぶこと。 キャラがズレていくこと。 誰もまとめようとしない空気。
それらを見届けながら、言葉の揺れを楽しむこと。
そして、何かが起きたら、それを“戻さずに残す”こと。
それが、コウメ太夫から受け取ったものの、 自分なりの答えなんだと思う。