濁す力について考えてみた

心理や思考

――断言しないことが、意味を持つとき

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この記事で伝えること

  • 「濁す」ことは、ただの曖昧さではなく、思いやりや配慮から生まれる行動かもしれない
  • 自分自身の経験とAIとの対話を通じて、「濁す力」にどんな役割があるかを探った
  • 答えをはっきりさせないことが、むしろ誰かの思考を助けることもあるという話

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「はっきり言わない」って、悪いこと?

SNSでもリアルでも、
何かを言い切る人が増えたように思う。

それは頼もしさにも映るし、
一方で、どこか息芽ささにもつながっている気がする。

「濁す」という行為は、たいていネガティブに捉えられる。
優柔不決、はっきりしない、逃げ身のようなラベルが打たれがちだ。

でも私は、濁すことにも力があると思っている。
今回はその「濁す力」について、すこし言葉を残してみたい。

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「濁す」という配慮

発言には、それなりの責任が生まれる。
言葉は、時に誰かを傷つけてしまうし、自分を守る術にもなる。
だからこそ、はっきり言うときは慎重になる。

それは単に「怖いから」ではない。

相手にとっての背景や感覚が、
自分とはまったく異なるかもしれないことを知っているから。

たとえば、
私が「赤」と思っている色が、
誰かにとっては「私の中の青」に近いかもしれない。
そんなふうに、前提がずれている可能性をいつも考えてしまう。

だから私は、
自分のポリシーと向き合いつつ、
そのバランスを保つために「濁す」ことがある。

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AIの濁しと、人の濁し

生成AI――ChatGPTとの対話の中でも、
「濁し方」にはいくつかの共通点を感じた。

AIは、明確な答えを避ける場面がある。
でもそれは技術的な限界というより、設計者の倫理やガイドラインによる制限だ。

たとえば、
重疾の患者に余命を言わないような、そんな“配慮としての沈黙”にも似ている。

必要なときに、あえて言葉を抵える。
それは、ある意味でAIの“濁す力”なのかもしれない。

ただ、人間の濁しにはもっと「間」がある気がしている。

それは、“今すぐ言わなくてもいいこと”を、
あえて残しておくような、そんな空気だ。

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正しさに抜くされないために

私自身、
「正しさ」に救われることもあるし、
「正しさ」に傷つけられたこともある。

正論は、時にやさしくない。

主張が強くなると、
その裏で誰かの感情や考えが抜けられてしまうこともある。

だからこそ、
濁すこと=逃げではなく、
濁すこと=やさしさや休息を残す選択なのかもしれない。

みんなが「自分の意見が正しい」と言い切る社会になったら、
誰の話を聞けばいいかわからなくなる。
考えるのに疲れて、黙ってしまう人も出てくる。

だから私は、
自分の考えをちゃんと持ちつつも、
ときにはゆるく濁す空気感を残していたい。

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濁すことは、思考の余白かもしれない

「答えを出さないまま終わってもいい」
そういう場所があってもいい。

もしかしたら、
誰かがふと立ち止まって考えなおすきっかけになるかもしれないし、
すぐには言葉にならない気持ちをそっと置ける場所にもなるかもしれない。

濁すことは、考えを止めることじゃない。
考え続けるための“ゆるやかな間”なんだと思う。

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おわりに

濁すことは、逃げではない。
逃げることすら、時には必要だと思う。

人が言葉を選ぶとき、正しさを求めるあまり
誰かの「ことばにならない気配」を押しつぶしてしまうこともある。

だから私は、
ときどき立ち止まるように、言葉を濁す。

それは、
「ここで止めていいよ」
「今は考えなくても大丈夫だよ」
と誰かに伝えているのかもしれない。


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