●前提:「INTPである自分」から見た他者との距離感
INTPとして、他者との距離の取り方にはいつも少し慎重さがある。
相手がどんな人なのか、それ以前に「自分がどういう人間か」も未定義なまま進むことが多い。
共感よりも構造、感情よりも仕組み。
そんな前提で人間関係を構成していると、相性とか相互理解というものは、**「偶発的に生まれる副産物」**のように思えることすらある。
そんな自分が、ENFJらしき人と会話して「心地よかった」「また会ってみたい」と感じたのは、正直、想定外だった。
●出会いの中で起きた“ズレ”と“通じ合い”の交錯
はじめは、ENFJらしく気配りの行き届いた立ち居振る舞いが印象に残った。
自分のように思考の奥でグルグル考えてから話す人間にとって、その軽やかさはむしろ「どれだけの演算量で、ここまで回してるんだろう?」と不思議だった。
だが話が進むにつれて、**その人の中にある“内なる真面目さ”**が、ところどころににじみ出ていた。
あるとき、自分がふと「あなた、結構真面目だよね」と言った。
すると相手は少し驚いたような顔をしながら、どこか嬉しそうでもあった。
その反応に、こちらが驚いた。
どうやら「真面目」と言われたのは初めてだったらしい。
でも、自分にはそれがすぐにわかった。
表面の親しみやすさとは裏腹に、会話の中に出てくる言葉の選び方や、立ち位置への意識に、**“整えようとする姿勢”**が確かに感じられたから。
その瞬間、自分の中で「この人、構造的に生きてるな」という確信が生まれた。
●“内省するENFJ”に出会ったということ
INTPとしては珍しく、「あ、通じてるな」と思えた瞬間がいくつかあった。
特に、相手が自身の成り立ちや関係性の中での自分の立場について、深く考えていることを言語化してくれたとき。
それは、ENFJにしては珍しいほどの内省の深さであり、INTPが「自分であっても話すか迷う内容」を相手から先に引き出された感覚があった。
逆に面白かったのは、「自分ってそんなに気配りできてるのかな」と思わされた点だ。
相手の気配り力が明らかに高かったからこそ、自分の不器用さが浮き彫りになるような感覚もあった。
これは“劣等感”というよりも、“対比による自己観察”として興味深く、むしろ知的刺激に近かった。
もしかすると、この内省の深さそのものが、自分との対話の中で引き出されたものだったのかもしれない。
普段は言葉にならないまま留まっていた感覚が、「話してもいい」と感じる空気によって、徐々に形を帯びていった。
INTPとしてのこちらが、相手を急かさず、ジャッジせず、ただ「観察」として受け止めていたこと。
その態度が、相手の中にある構造や思考を、安心して言語化できる余白として機能していたのではないか。
ENFJの側から見ても、「構造的に話すことが許された」場は稀だったかもしれない。
だとしたらあの内省は、ENFJというタイプの内に潜んでいた可能性と、自分の在り方が偶然交差した結果として生まれた、貴重な瞬間だったのだと思う。
●まとめ:また会ってみたい、と思えた理由
INTPとして、人とまた会いたいと思うにはいくつかの条件がある。
安心できること。
新しい視点をもらえること。
構造が見えないままでも、拒絶ではないと感じられること。
このENFJは、それらを自然に満たしていた。
その上で、「自分の知らない自分を知らせてくれる存在」でもあった。
距離が縮まるのではなく、視界が広がるような感覚。
だからこそ、もっと話してみたい。
もっと引き出されてみたい。
これは「合う・合わない」という相性を超えて、
“ズレのまま、通じ合ってしまった”関係だったのかもしれない。