▷この記事で伝えること
- チョンダラー(ちょんだらー)とは何かをわかりやすく解説
- 最近話題となった「甲子園応援のチョンダラー騒動」の背景
- 専門家や当事者の声から読み取れる文化的意味と誤解
- 今後のチョンダラーのあり方を考察
■「チョンダラー」とは?笑いと祈りの伝承者
沖縄で夏になると各地で響くエイサーの太鼓。その列の中で白塗りの顔に扇子や笠を持ち、滑稽な動きを交えながら列の脇を舞う人物――それが「チョンダラー(ちょんだらー)」です。
● 語源と歴史
- 「京太郎(ちょんだらー)」は「京都から来た太郎」が語源とされる説が有力。
- 古くは琉球王朝時代、京都から来た念仏回りの門付け芸(かどづけげい)に由来。
- 一種の宗教的・祝祭的な「祈りの使者」「場を整える者」としてのルーツを持ちます。
🌀例えるなら、祭の中で笑いを入れる**“仮面の演者”**であり、静と動をつなぐ潤滑油のような存在でもあります。
■ 最近の出来事:甲子園でチョンダラー応援に「待った」
2024年夏、沖縄尚学高校が甲子園準決勝で登場した際、応援席に顔を白塗りにし笠をかぶった“チョンダラー姿”の卒業生が現れました。
- 笑いを交えた動きで観客を沸かせたものの、高野連がこれを問題視。
- 「特定の宗教や民族を想起させ、誤解を生む可能性がある」として決勝戦では応援団に対し演出を控えるよう要請されました。
- 結果、沖縄尚学の応援席からは「チョンダラー」が姿を消すこととなりました。
この出来事はSNS上で瞬く間に広がり、「沖縄の伝統文化の否定では?」という声と、「誤解を避けるためには仕方ない」という声が交錯しました。
■ 現地の声・当事者の思い
● 実際にチョンダラーとして参加した卒業生の証言(朝日新聞)
元記録員の大屋純人さん(22歳)は、自ら白塗りをして応援した理由をこう語っています。
「甲子園という特別な場でも、沖縄らしい応援がしたかった。仲間や後輩を笑顔にしたい一心だった」
彼にとっては、ふざけでも目立ちたがりでもなく、**伝統を背負った“祈りの応援”**だったのです。
■ チョンダラーの現代的な役割
チョンダラーはエイサーにおいて、単なる道化ではありません。その役割は多岐にわたります。
- 列の整理
- バチの予備を配る
- 子どもや年配者をなごませる
- 即興で場を盛り上げる
さらに現代では、SNS時代に合わせた表現も増えています。
- 顔だけ白塗り(カジュアル化)
- 男女問わず演じられる
- ティーンズによる参加や動画投稿
地域行事だけでなく、**「現場の空気を整えるファシリテーター」**としての価値が生まれているのです。
■ なぜ誤解されやすいのか?「白塗り」の意味と視点の違い
今回の甲子園応援で注目されたのは、白塗りの顔と民族的な装いが一部観客に「不適切」「揶揄的」「差別的」と捉えられたことです。
● 文化圏外から見た“白塗り”の意味
- 欧米圏では白塗りの顔が「人種的ステレオタイプ(ブラックフェイス・ホワイトフェイス)」と結びつくリスクがある。
- 日本国内でも、「どこの文化を揶揄しているのか分かりにくい」という感情的反応が生まれやすい。
つまり、「見る人の文化的前提」によって、“善意の演出”が“無神経”に映るという構造があるのです。
■ それでも守りたい、沖縄らしさの表現
実際、沖縄のエイサーにおけるチョンダラーは、純粋な笑いと祈りの使者です。
- 人をバカにするのではなく、「祭のハレとケをつなぐ道化」。
- 緊張をほどき、観客との境界を壊し、「一体感を生む」役割。
- 決して“パフォーマー”ではなく、「見守る側、寄り添う側」の存在。
沖縄では小学校の地域行事や福祉施設のお祭りなどにも登場し、世代をつなぐ存在としても機能しています。
■ 文化表現と公共ルールのバランス
今回の甲子園での騒動は、「どこまでが伝統で、どこからが誤解の温床か?」という線引きを問うものでした。
高野連の立場からすれば、全国放送かつ教育イベントとして誤解を避けるための判断だったとも言えます。
しかし、それにより「文化の縮小・萎縮」が起こってしまえば、それはまた別の損失でもあります。
■ 考察:チョンダラーは“場づくり”の哲学を体現している
チョンダラーの本質は、「空気を読む力と、それを笑いに変えるセンス」です。
- 誰もが緊張する大舞台で、周囲を笑わせて緩ませる。
- 演者と観客の間に流れる空気を察し、橋渡しする。
- 形式ではなく、人間関係そのものに働きかける役割。
これは、どんな文化・組織・社会でも求められる普遍的な力です。
その意味でチョンダラーは、「沖縄文化に根ざした“人間関係のハンドラー”」とも言えるでしょう。
🎯まとめ
- チョンダラーはエイサーに欠かせない“道化”であり祈りの使者
- 甲子園での応援演出が「誤解」を呼び、自粛される結果に
- 現代ではファシリテーターとしての新しい価値が注目されている
- 文化と公共性のせめぎあいの中で、“空気をつなぐ者”の在り方が問われている