▷この記事で伝えること
- 「BL無罪」という現象が指す意味と社会的な違和感
- 男性向け作品との受け取られ方の違いはなぜ起こるのか
- 心理学者・メディア研究者の分析を通じて、“関わり方”の違いを明らかにする
- 表現規制や倫理の議論を超えて、「読む側の構造」を掘り下げる
■ BL無罪とは何か?フィクションの“見えない免罪符”
BL(ボーイズラブ)作品は、少年同士・男性同士の恋愛を中心に描いたフィクションジャンルです。
このジャンルに対して時折聞かれる言葉が「BL無罪」。
これは、
「同様に性的・暴力的な描写を含んでいても、なぜかBLは許される風潮がある」
という認識や違和感を端的に表すフレーズです。
◆ 例:
- 男性向けエロ漫画が批判される一方で、BL作品は駅ナカ書店で堂々と並んでいる
- 未成年を描いた性描写でも「BLなら大丈夫」とされる
- ゾーニングや表現倫理の議論がBLには適用されにくい
このような状況が、**他ジャンルと比較した“不公平感”**や、倫理的グレーさに対する鈍感さという形で問題提起されています。
■ 実は“表現の中身”ではなく、“関わり方の構造”が違う?
一見すると「BLが甘やかされている」と捉えがちですが、ここで注目すべきは作品そのものの内容ではなく、“読者がどう関わっているか”の構造です。
これを分析したのが以下の研究です。
■ 専門家の知見から見る「BLの受容構造」
1. Ágnes Zsila(心理学者)によるBL研究レビュー
- ハンガリーの心理学者Zsila氏は、BLを好む読者が持つ共通の心理的特徴を整理しています。
- BLは「社会的に禁じられた関係性(例:年齢差、立場差)」を感情移入の材料として消費する傾向が強い。
- 特に女性読者は「自己投影」というより、**“観察者としての共感”**というスタイルで登場人物を見守る。
つまり、「登場人物に自分を重ねて欲望を満たす」というより、
→「この二人が愛し合える世界を見守りたい」という関係性への願望が強い。
2. Zhou Yanyan氏(国際メディア研究)による実証研究
- 中国・日本・台湾などでBLを読む女性を対象に、感情的関与の違いを分析。
- その結果、「BLは男女恋愛よりも平等な関係性が描かれる」という認識が強く、読者が安心して没入できる関係構造が整っていることが判明。
- この平等感が、BLに特別な信頼感をもたらしており、倫理的な防御意識を下げる要因になっていると指摘。
■ ここに現れる“関わり方の違い”
これらの研究を総合すると、BL読者の関わり方には以下の特徴があります。
| 要素 | BL作品 | 他の性的表現作品(例:男性向け) |
|---|---|---|
| 受け手のポジション | 観察者・共感者 | 投影者・当事者 |
| 関係性の構造 | 平等/感情優先 | 欲望構造の非対称性が前提 |
| 読者のスタンス | 応援/見守り | 消費/利用 |
| 罪悪感の処理 | 二次創作的余白に逃がす | 直接的に感じやすい |
■ この“違い”が生む「無罪感」
ここで重要なのは、
「BLだから許されている」のではなく
「BLは“無罪的に関われる構造”を作っている」
という点です。
読者が「自分は加担していない」「これは誰かの物語」と思える関係性を築いているからこそ、
→ 倫理的な違和感が生まれにくくなっている。
これは、ジャンルの特性というより、“関わり方”の演出が上手いジャンルなのかもしれません。
■ 無罪感を生むのは、「自分は当事者ではない」という安心設計
前編で見たように、BLの読み手はしばしば**「登場人物に入り込まない」**という距離の取り方をしています。
- 「これはあくまで二人の物語」
- 「私はこの世界を外から眺めているだけ」
- 「フィクションだから傷つけていない」
このような姿勢は、“自分が悪いことをしていない”という心理的ポジションを確保する働きを持っています。
つまり、無罪でありたいという意識そのものが、読む構造の中に組み込まれているのです。
■ “誰も傷つけていない”という前提が作るバリア
Zhou氏の研究でも指摘されたように、BL読者は「安心して感情を委ねられる関係性」に強く惹かれる傾向があります。
この「安心」は次のようなバリアを形成します:
- 「これは現実の話じゃないから」
- 「この作品は暴力的じゃないし、感動的だし」
- 「そもそも男同士だから、現実には起きない」
このような前提が積み重なることで、社会的・倫理的な批判に対して防御的になりにくい“聖域”が形成されているのです。
■ しかし、“関わらされる”側の視点はどうか?
ここで忘れてはいけないのが、「見せられる側」の感情です。
たとえば書店で、
- 明らかに中高生向けの棚にBLの性描写が強い本が並ぶ
- レジ横や通路沿いの「目立つ位置」に置かれている
このような状況に、他ジャンルと比べて疑問を持つ人が現れるのは自然な流れです。
しかもBLは「フィクション」という理由で、
「問題ないでしょ」「BLだし」
とスルーされてきた側面があるため、“無自覚に関わらされる”ことで不快感を抱く層との摩擦が生まれやすくなっています。
■ 「無罪」の裏にある“構造的特権”
BL作品がなぜここまで「守られている」ように見えるのか――
それは、ただ文化的に許されているからではなく、
- 読者が当事者意識を持たずに関われる
- 発信者も「私はただ描いただけ」と言いやすい
- 店舗側も「売れる」「クレームが少ない」と思っている
という、関わる全員が「責任の所在をぼかしている」構造が、結果として「無罪感」を増幅させているのではないでしょうか。
■ 考察:BLは「無罪」なのではなく、「共犯関係が見えにくい」ジャンル
ここまでの心理的構造を踏まえると、「BL無罪」という言葉は本質的ではありません。
むしろ問題の本質は:
BLというジャンルが“誰が誰とどんな関係で関わっているのか”が見えにくいこと
だと言えるでしょう。
- 読者は「感情を借りて」いるのか、「物語を消費」しているのか
- 作り手は「自分の中の何か」を描いているのか、「売れるから描いている」のか
- 書店は「文化として扱っている」のか、「売り物として陳列している」のか
このような共犯関係の構造が明示されないまま、心地よく消費されていく。
それこそが「無罪に見えてしまう理由」ではないでしょうか。
🎯まとめ
- BLが「無罪」とされるのは、受け手の“関わり方の構造”が異なるから
- 観察者ポジション・平等な関係性が「倫理的な安心感」を作っている
- だがその安心は、“他者を無意識に巻き込むバリア”にもなる
- 無罪というより、“見えない共犯関係”の上に成り立っているのでは?